何を目指して生きるのか本気で考えてみた part2

 

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ペンギン好きです

はじめに

前回、「何を目指して生きていけば良いのか」というテーマを元に抽象的な議論を進めていきました。その結果、「人との親密度を高め、友好的なコミュニケーションを取ることが幸福であり、その為に全力を注ぐ」ことが重要であるという結論を出しました。

そこで、私は実際にそのように行動原理を方向転換しました。その結果、凡そこの程度で良いのではないか?という幸福感を得ることが出来ましたし、今後も円滑に、かつ充実感を持って人と関わっていけそうだ、という予測を立てられるようになりました。ある種、難関に憧れそれを目指して、強く言えば他者の敷いたレールの上を通る人生から、他者との関わりの中で自分を見出していく人生に、方向転換したいという、割と大がかりな目標を概ね達成できたのではないかと思っています。また、それは幸福感・充実度というフィードバックから感じることが出来ています。

そこで一つ難関を乗り越えた私としては一安心しているのですが、同時に、「このままで良いのか?」という更なる自分を目指していきたい思いが沸き上がってきました。

前回は「人とのコミュニケーションこそが幸福であり、それのみに尽きる」といった趣旨で文章を書きましたが、少し「幸福とは何か」という根幹的な部分から自分の行動原理を組みなおしたいと思い筆を執った次第です。勿論、「人との付き合い」の幸福という尺度における重要性は感じていますし、これからもそこでも自分をブラッシュアップさせていければ良いな、とは思っています。

 

「幸福なコミュニケーション」の他に

中学生の頃、私は、この深淵な宇宙というものに対して、全てを自分の手中に収めてしまいたい、という割かし傲慢な考えを持っていました。宇宙がどのように出来上がって、どのように維持されているのか、と特に理学的な事柄について興味を持ち、相対性理論量子論素粒子論といった非現実でありながらキャッチ―な分野についてよく本を読んでいました。今思うのは、現状の私はそこを見習うべきところがあります。

世界がどのように出来上がっているのか、自然的なものであれ、人為的なものであれ、法則や構造を理解し自分のものにすることは、永続的な自分の価値になりますし、その営み自体幸福なものではないか、と思ったのです。

ここで、勉強する方針が変わってきます。前回の議論で出来上がった私からすれば、他者とのコミュニケーションで盛り上がるもの、例えば観光名所であったり、一般的に論理的に理解できる自然現象であったり、そういうものを勉強することに「意義」があります。しかし、それだけではある種受動的であり、更なる幸福に繋げていくためには、「知りたい」というより能動的な欲求に基づいたモチベーションがあっても良いのではないか、と考えました。自分の知的好奇心を尊重しても良いのではないか、という要請です。

深く掘り下げていくことは殆どの場合人とのコミュニケーションには役立ちません。そういった意味で「無駄」と捨象される可能性が私の中にありました。しかし、それは違うんじゃないか?というもう一人の私が囁きました。時間をかけても良いので、深く、深淵まで掘り下げて、この世界を理解していこうとする姿勢こそ個人の充実感・満足感・幸福感に繋がりますし、そこは大切なのではないかと思ったのです。

この自分の知的好奇心を尊重したい思いは、人との親密度を高めたいという思いとは排反的な位置づけにはなると思います。しかし、それらを両立してこそ、新たな自分の可能性を開けるのではないか、と考えました。

これは、自分の幸福の為の価値観の見直しであり、まだそのように私の行動原理が組み直される目途は立っていませんが、少しずつ、自分の中での妥協点を探していければ良いなと思っています。

 

自分の信念、軸というもの

まだ、私は結婚する目途は立っていないですし、かなり一人の時間を謳歌できます。一人で暮らせるうちに色々挑戦して失敗して経験値を上げていきたい、という思いはずっと変わりませんが、その中でも何か目的を持って挑戦していければ良いのかなと思うようになりました。

その目的は、自分の「信念」「軸」を形成していきたい、というものです。

自分の中の「信念」のイメージとしては、何らかの感情、パッションに基づいていて、それを根として、その上に茎・葉・花と論理の構造を上へ上へと巡らせていったものの総体のことである、と考えています。でも、どちらかというと茎などの部分は行動原理と呼ばれるものであり、根の部分を主に指すのが信念である、といったイメージが強いです。だから、信念は感情に基づいていて、論理的な筋が通っているもの、といった感じでしょうか(現状あまり信念に対する分析は出来ていません。)

信念は、幾つあっても良いのだろうと考えています。仕事における信念、趣味における信念、そこから伸びて成長・修正していく位置づけとしての行動原理、そして完成する多くの「花」が絡まり合うことにより、自分が形成されていくのだろうと考えています。

しかし、ここで信念というものをどう成長させていけば良いのか、どのように自分なりの支柱を立てて軌道修正していけば良いのか、目的が分からなければ、手段も分かりません。ここについては、これからの経験の中で学んでいくべき大きな課題であると考えます。

ただ、花を咲かせるために自分で自分に水をやることが「信念」「軸」を醸成するイメージなのだろう、という大まかなイメージはこれからも私の中であまり揺らがないと思います。小学生の時に副校長先生が、「自分で自分を育てる」というキャッチフレーズをよく全校集会の中で話されていたことを思い出しますが、それこそが主体性であるし、自分を動かしていく方向性の一つである、と考えています。

まだ一人の時間が多いうちに、人間としてレベルアップしていくことが私の課題です。これから数年、或いは数十年の私の人生の中で、信念とは何か、そして信念のもとで動いていくためにはどのようにすれば良いのか、分析・考察していくことはその中でも大きな比重を占めていくことでしょう。

 

おわりに

前回は「幸福の為には何を目指せば良いのか」という問題に対して、「コミュニケーションを重要視していきたい」と解答を出しましたが、今回はそれだけでなく、「知的好奇心を重要視していきたい」という結論を出しました。また、これは幸福と繋がってくるかはまだ分からないのですが、「信念」の形成を行っていきたいという提案をしました。

私の人生はまだまだ続いていくので、人生とは何か、幸福とは何か、を考え試行錯誤した軌跡であるこのブログのシリーズは形を変えることはあるかもしれませんが、末永く続いていくものであるし、これは意義のあることなので、末永く腰を据えて考察していきたいテーマだと考えています。