何を目指して生きるのか本気で考えてみた part4

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職場の同期と食べた夜パフェ「ひまわり山」

はじめに

こんにちは、hiroです。社会人生活も2年目となり、組織の中での生活も慣れてきましたし、徐々にキャリアとしての目標も明確なものとなってきました。また、恋活婚活を進めることとなり、お付き合いにこそ至っておりませんが、「結婚」が目標として見え始めてきており、仕事面だけでなくプライベート面でも考えることが多くなってきました。前回このシリーズのブログを執筆してから、将来について、人生について、個人的に考えたことは多いので、思考を記録・整理しておこうと考え筆を執った次第です。 

実際に社会人生活を進めたところでこのシリーズについて振り返ってみて、再び考え直したいことについて、一つ一つ熟考していきたいと思います。 

 

「主体性」とは何か  ~自分で自分を育てる~

私は、part3にて、「何を目指して生きていけば良いのか」という問いに対して、信念の醸成を行うのが大切であると述べ、それを行う為には、「愛する」ことだと考えました。しかし、私は、この内発的動機づけに基づいて「愛する」ことの方法がよくわからない、だからこそ信念を育てられないのだと述べました。 

「愛する」こととは、主体的に選び取ることであり、主体的に選び取ることこそ、内発的動機づけを根源にしていると考えます。しかし、他者に評価されることを主の目標として受け身的に生きてきた私には、この内発的動機づけの制御の仕方がよく分からなかったのです。 

私は、この主体性の考察を暫く放置していたのですが、ある時、職場の同期にも、高校同期にも、「君には主体性が足りない」と指摘されてしまいました。社会生活を行う上で、主体性は、組織や社会をより向上させることに繋がる為、殆どの場合プラス評価に繋がります。 

そういった社会生活を行う上での背景もあり、私は「主体性」の考察に取り組むこととしました。 

 

結論から言うと、「主体性」を考えるにあたって重要な要素だと思ったのは、「好奇心」です。私には、好奇心が足りない。それは大学時代から薄々感じていました。受け身的に他者評価を目指して生きていた大学時代の私は、レポートや論文を仕上げる過程で、どうにも中途半端なところで満足してしまうのです。何かを深めようという貪欲な姿勢が無い。貪欲に物事を進められる姿勢こそ、好奇心の賜物であり、それが主体性に繋がると考えました。 

そこで、私は、「好奇心」について、心理学ではどのような記述が為されているかについて調べてみました。 

「好奇心」には3種類あるとのことでした。「拡散的好奇心」「知的好奇心」「共感的好奇心」の3つです。拡散的好奇心とは、人間が目新しいものに惹きつけられる時の心の動きのことであり、他2つの礎となるものであるらしいです。また、拡散的好奇心を発展させる為には、学ぼうとする努力によって好奇心に方向を持たせることが必要になるとのことでした。つまり、好奇心を伸ばす努力を行わないと、何の洞察も得られないまま終わってしまうということです。つまり、「愛せない」。これは私にとって致命的なことです。 

「知的好奇心」とは、拡散的好奇心を能動的に方向づけた結果、知識と理解を求める意欲が内面から湧き上がってきたときのそれです。知的好奇心によって創造力、独創性、問題解決などの才能が高まり、イノベーションが生まれる契機が作られ、継続的な満足感や喜びが得られるようになります。私のこれまでのブログを読んでくださった方なら憶測されると思うのですが、これはpart2で述べた「知的好奇心を重要視していきたい」ですし、それ自体「愛する」ということです。 

「共感的好奇心」とは、拡散的好奇心を能動的に方向づけた結果、他人の考えや感情を知りたいという意欲が内面から湧き上がってきたときのそれです。共感的好奇心によって、「なぜ好きなのか」「なぜこのような言動をするのか」「なぜこの仕事を選んだのか」といった、その人がこのような結論に至った理由を考えて理解し、他人に寄り添うことが出来ます。これはpart1で述べた「幸福なコミュニケーション」であり、「コミュニケーションを重要視していきたい」ですし、それ自体紛うことなき「愛する」ということですよね。 

この「知的好奇心」「共感的好奇心」はお互いがお互いを高めあうらしいです。また、2つのバランスを取ることが大切であるということを書いてありました。 

 

つまり、「主体性」とは好奇心の賜物であり、それ自体が「愛する」ということ、すなわち「幸福になる」ということなのです。私は、これらを頭の中で整理し終わった後、衝撃を受けました。世の中はこうやって幸福になれる仕組みになっているのか、と笑。つまり、ポジティブに捉えると、私は職場の同期や高校同期に、「もっと幸福に主体的になれよ!」とエールを送られていた訳です。私は、幸福になることの芽を自ら摘み取っていた、というか、そもそも幸福になるという目的に対して、その方法が分からなかったし、その方法で合っているという確証が得られていなかったということになります。 

好奇心を育てるということが「自分で自分を育てる」ということであり、幸福になるための手段だったのです。好奇心を育てる為の支柱が「信念」という論理であり、信念を育てる為には、内発的動機づけとしての、拡散的好奇心を大切にすることが大切であると。 

 

しかし待て、「信念」は何処を向いて育てれば良いのだ?そして、「愛する」為の技術的方法とは? 

これは、今までのブログである程度答えが出ています。信念は、「組織」「社会」に向けば良いのです。「愛する」為の技術的方法とは、主体的な態度で、自分自身が自由を謳歌しながら、組織・社会が動く・回ることを確認し、それを楽しむことだと考えます。幸福とは「愛する」ことであり、好奇心を努力によって育てて、主体性を発揮し、組織・社会を動かすことです。その為には、「知的好奇心」「共感的好奇心」のバランスを自分の中で取る必要がある。 

 

おわりに

皆さんはここまで読んですっきりしていただけたでしょうか。私は「幸福」「人生」について、今まで考えてきたことが一つになって満足しました。ただ、私はまだこの「愛する」ということの具体的方法を知らない。抽象的に論理構造を整えただけであり、根茎葉がどのように伸びていくのか、分からない。この「愛する」ということ、心と頭を総動員して、「知」「配慮」「尊重」しながら、他者や組織について「責任」を負う過程を楽しむ中で、自分と他者の成長を見守ることについて、まだまだこれから沢山の新しい気付きに出会えそうです。また何か気づきがあれば筆を執ります。