何を目指して生きるのか本気で考えてみた part3

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はじめに

前回の記事で少しTwitterで反応があった「何を目指して生きるのか」シリーズです。ちょっと考えた結果、part1での自分の「努力」に対する根本的な考え方がpart2での「信念」の醸成を阻害していると思い至ったので、筆を執りました。果たしてどういうことなのか、そして「信念」はどのようにすれば醸成されていくのか、私なりの考えを纏めたいと思います。

 

間違っていたかもしれない私の中の「原理」

まず、私の中の原理として、現状に甘んじてはいけないというのが第一原則です。「何らかの努力をしている自分」が前提に来ます。自分の中で最大限の努力をすることで、例え良い結果が出なくても、その努力の過程を楽しめれば良いだろう、というのが私の中での一番です。

これは私がpart1で一番初めに書いた私の「原則」です。皆さんには「まあそういうものだ」ということで読み飛ばしていただいた部分ではないかと思うのですが、これがpart2で述べた私の「信念」の醸成を阻害していると思い至りました。

どういうことかというと、この原則は「成果主義」に則っているということです。

努力をしている自分や、努力の過程を好きになることで得られるメリットとしては、「高い順位が付けられたり、褒賞が与えられたりすることが価値基準となる場」に於いて、絶大なメリットがあります。

当たり前ですが、勉強をすれば成績は上がります。筋トレをすれば、筋肉が身に付きます。このように、沢山の結果が結びつくこととなり、努力を好きになることで得られるメリットは計り知れないです。また、努力を好きになることで、忍耐力も身に付きます。例え失敗したとしても再び立ち直ることが出来ます。また、例えしんどかったとしてもそれに耐えて、再び努力の場へと向かうことが出来ます。このように、努力を好きになることは、努力し結果を出し、他者に認められる存在となる上で、心理的に最適な道のりとなる訳です。実際、他者から課題を与えられる学校という場で結果を出す為には、「素直に全てを受け容れ、それらのものを好きになる」というマインドセットが最適になることは私のこれまでの経験からほぼ確証を持って言うことが出来ます。私自身、東京大学に合格しましたし、スポーツもある程度大体できますし、努力に関してはセミプロです。

ただ、その「努力そのものが一番であり、努力を好きになる」姿勢は、外から与えられることが前提になっています。また、目指すところが、最終的に「他者から評価される」ことに落ち着いてしまいます。いや、これは全然モチベーションとして良いし、それで社会適応してこれたのだから問題ないのですが、こと「幸福」軸が噛んでくると話が少し違ってきます。私は、part1で「愛する」「愛し合う」ことが幸福であると述べました。この「愛する」という動作には、「能動的に選び取る」という要素が入ります。しかし私は、現在のままのマインドセットでは、「他者から愛される為に愛する」というところに落ち着いてしまうのです。これは能動的・主体的ではありません。受け身の姿勢です。私が「愛する」為には、「愛される」を目指すことが前提条件になっている。これは心理学や教育学でいうところの、外発的動機付けによる行動でしかないです。これは幸福なのかというと、私はそうではないと考えます。

勿論、どうにもならないことは社会生活を行う上で沢山あります。その中で、「努力を好きになる」姿勢は高度に最適な社会適応であると言うことが出来ると思います。が、主体的に選び取っていくことを自分に許しても良いのではないか?という提案を自分は自分に投げかけたいです。好きなものにもっと正直になって、研究し、配慮し、愛でて、人生を充実させていっても良いのではないでしょうか。外発的なものに囚われ、内発的な自分の声を無視していることが、私の「原則」の欠点ではないかと、そう思い至った訳です。これは、少し誇張して言えば、社会がそう促すならば、世界が破滅していくような方向へと向かう努力についても容認してしまう、ということになります。

私は、自分の感情に基づいて、このような能動的であり、主体的であり、我儘ともいえるような、「愛する」行為を自分に促す方法を知りません。「愛する」ことは水をやり、成長を積極的に気にかけることです。「愛する」ことで、愛された側だけでなく、愛した側も成長していくことが出来ます。「愛する」対象は、人に留まりません。森羅万象全てを愛することが出来ます。私は、事物を「愛する」ことで「信念」が形成されれいくのだと考えます。それも、内発的な動機で「愛した」からこそ自分の中に揺るぎのない「信念」が醸成されるのだと考えます。だから、私は「信念」を醸成していけないし、「信念」を育てていく方法が分からないのです。

Part2で、「知的好奇心を尊重していきたい」「信念を醸成したい」という2つのキーワードについて言及しましたが、これらは密接に関係しあっていると考えます。自分の知的好奇心を尊重した行動を自分で選び取っていくからこそ信念が醸成されていくのです。

また、part1での「幸福なコミュニケーション」も信念の醸成に関わります。ただ、目的が何処にあるか、については、自分以外の場所にあるのではなく、自分の中にある、ということを補足したいです。自分の内発的動機付けに基づいてコミュニケーションは進行していくべきです。勿論社会性も必要なので、その外発的動機付けとのバランスに留意すべきでしょう。

結論を言えば、私は「努力をしなければならない」という固定観念に囚われていたことで、いつの間にか外発的なものを目指してしか生きることが出来なくなっていたことが、自分の幸福への足枷になっていたのです。

 

どうすれば良いのか

じゃあ、どうすれば良いのか。取り合えず、一旦「努力が一番」の原則を手放しましょう。私は、自分の好きなものに対して貪欲になるような姿勢を見せるべきです。行きたい場所があれば直ぐに旅行に行って写真を撮る、会いたい人がいれば直ぐに会って楽しく会話する。そういうことに罪悪感や引け目を感じずに、そこが人生の一番であるということを、自分に許しても良いのではないでしょうか?

自分の好きなものを選び取り、好きなものに囲まれて生活する。そういう「当たり前の幸福」を、私は私に対して真に許してなかった。もっと好きなものに正直になっても良いのではないか。結局、そういった我儘とも思える行為が自分を成長させるし、自分軸となり、生きていく上での支えとなっていくのです。

努力も、それ自体が目的となるのではなく、努力して達成した後に構えている未来を意識すべきです。私は、外発的動機付けを意識しすぎた結果、「幸福になる」という目的に対して、手段と目的をはき違えていました。

未来をどう幸福で埋め尽くしていくか。それを考えるのは十分に高度なことだし、十分に人生の目的たり得ます。

社会的な要請や、どうにもならないことは存在するので、「努力を楽しむ」「与えられたものを好きになる」姿勢は何処かに残しておくのが良いとは考えます。しかし、最終的な目的が現在未来の永続的な幸福であり、そこに日々向かっていることは忘れてはなりません。

 

おわりに

今回は、自分の内発的動機付けを大切にしたいというブログを書きました。しかし、私は慣れておらず、主体的に選び取ることの方法を頭でも心でもまだあまり理解していません。「信念の醸成」にも関係してくると私は述べましたが、これとの関係性もフワッとしたものでしかありません。日々の中で意識的に、自分の好きなものに基づいて選択するような行動を増やしていくことで、自分の見識を深めていきたいと考えています。

また何か気づきがあればこのシリーズを書きます。それでは!